イダ・ヘンデルの演奏は、ひたすら作品の内奥に肉薄していく真摯なスタイル。楽譜に忠実で、余分なことはいっさいしない。
それは、幼少時代からカール・フレッシュやジョルジュ・エネスコらから学んだ音楽に対する姿勢で、80歳を超えた現在でも学びの精神は健在。しかも、非常にオープンマインドで、あらゆることに好奇心を抱き、人との交流を大切にする。
「人生で最も大切なのは人とのコミュニケーション。生きている価値はそれに尽きると思う。演奏も聴衆とのコミュニケーションを重要視する。そのためには作曲家が指示したものをすべて詳細にわたって再現しなくてはならないの。いかに速く弾けるか、超絶技巧を前面に出すかなんて考えたこともないわ。私はゆっくりしたテンポで演奏するけど、それは楽譜から読み取ったもので、遅いテンポで弾くほうが何倍も難しい」
彼女はとてもおしゃれで、細身の高いヒールの靴を愛す。それを褒めたら、乙女のような笑顔で喜びを表現した。
イダ・ヘンデルといえば、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番より「シャコンヌ」といわれるほど、この作品は代名詞的な存在。長年さまざまな場所で弾き、録音も行ってきたが、いまだ満足できないという。
「演奏するたびに新たな発見があり、もう何回弾いたかわからないけど、演奏に満足したことは一度もないわね。これは私にとってもっとも好きな作品のひとつで、バッハの大家だったエネスコから学んだものだけど、いまや私の人生そのもの。みんな派手に弾くけど、私はたとえようもなく悲しい曲だと思うの。『シャコンヌ』の話をするだけで涙ぐんでしまうくらいよ」
とりわけ最後の終わりかたが大切だと語る。
「最後は人生の終焉を意味している、命の終わりを。だからクライマックスに行くに従って盛り上げていく奏法ではなく、最後の音は消え入るように、土に帰るように演奏するべき。バッハはそういう風に楽譜に書いているから。最初のところも難しい。解放弦が続くのでヴィブラートはかけられないし。そのなかで深い悲しみを表現しなくてはならない。これはとても難しいこと。でも、バッハはそれを要求している。その真意に近づかなければ本当の演奏は生まれないわね。『シャコンヌ』のテーマは解放弦でどう作品の意図を表現するか、これにかかっていると思う」
音楽の話になると目を輝かせ、雄弁に、チャーミングな笑みを浮かべながら話す。
そこで私が考えたレシピは、いつ食べてもけっして飽きない、シンプルな海鮮丼。素材が新鮮だから、からだが喜び、ぬくもりが感じられる。
イダ・ヘンデルの音楽のようにほんのり幸せに包まれる、そんなレシピである。
写真提供:ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル