Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

音楽を語ろうよ

長年ベートーヴェンの楽譜の研究を行ってきました。強弱や和声、こまかな記号にも留意し、それらが作品にいかなる生命を与えるかを考えたのです。そうした作業の積み重ねが、演奏に新たな生命を吹き込むわけです。ヴァレリー・アファナシエフ (ピアノ)

I have been studying the scores of Beethoven for a long time. Paying attention to all the dynamics and harmonies and every small musical symbol, and thinking how they bring life to the music. All those stacks of small efforts have lead to bringing in new life to my performances. ― Valery Afanassiev (Piano)

2017.09.14.

ヴァレリー・アファナシエフ (ピアノ) photo01

©Alfred Knopf/Sony Music Japan International

演奏と文章でベートーヴェンを表現

 ロシア出身で、現在はベルギーを拠点に世界各地で活発な演奏活動を展開しているピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフは異端者とか鬼才などと称されている。極度にゆったりしたテンポ、深い思考に根差した解釈、哲学的な表現など、そのピアノはすべてが特有の世界で、これまで聴いた演奏とは異なる趣を備え、強烈な存在感を放っている。
 アファナシエフは演奏する作品を徹底的に研究し、何年間もその内奥を探求し、完全に作曲家と一体化した時点で演奏を世に送り出す。
「私は演奏するとき、世界に耳を澄ます。ベートーヴェンを演奏するときは、彼の音楽だけでなく世界を聴く」
 こう語る彼は2015年2月、ドイツでベートーヴェンの3大ソナタ「悲愴・月光・熱情」を録音した。これまでベートーヴェンに関してはさまざまな作品を収録しているが、この有名な3曲のソナタは初めて。さらに文筆家でもあるアファナシエフはベートーヴェンをめぐる5つのエッセイを執筆し、CDの解説書で発表。CDはインタビューのDVD付で、そこでも音楽について雄弁に語っている。
 彼がベートーヴェンのピアノ・ソナタに初めて出合ったのは、母親が弾く「月光」の第1楽章と「悲愴」の第1、2楽章だった。
「母はプロのピアニストではありませんが、ベートーヴェンが大好きでよく演奏していました。4歳ころの私は、毎日それを聴いて育ったのです。この上なく美しく純粋で、異次元の世界へと運ばれるような特別な音楽に強く魅了されたものです。でも、自分で演奏するのはだいぶあとになってから。ベートーヴェンの真意を理解し、作品の複雑さ、内容の哲学的な面、語法の豊かさを完全に自分のものにするまでにかなり長い時間を要したからです。子ども時代に私が興味を抱いていたのは数学、生物学、物理で、音楽はその次でした。音楽に本格的に取り組んだのは、モスクワ音楽院に入学してからです。現在はこれらの作品と対峙すると、自分がベートーヴェンと一体化した気持ちになれます。そこで、録音したいと思う気持ちが芽生えたのです」
 アファナシエフのベートーヴェンは、類まれなる緊迫感と集中力がみなぎり、聴き手にも同様の集中力を要求する。
「いま、精神がとても自由で、新たな作品との邂逅が楽しくてたまらないのです。その充実を文章でも表現したいと思い、エッセイも綴りました。これまで戯曲や小説を書き、舞台では作曲家になったつもりで演奏に没入しましたが、多岐に渡る表現は魂の欲求。すべてが私を表しています」
 アファナシエフはエミール・ギレリスをはじめとする偉大なピアニストから教えを受け、歴史に名を残すピアニストの書物からも多くを得て自身の音楽を深めている。
「長年ベートーヴェンの楽譜の研究を行ってきました。強弱や和声、こまかな記号にも留意し、それらが作品にいかなる生命を与えるかを考えたのです。そうした作業の積み重ねが、演奏に新たな生命を吹き込むわけです」

音楽のなかの沈黙の大切さ

 アファナシエフのベートーヴェンは雄弁でありながら、随所に静寂が宿る。それは彼の得意とするシューベルトのピアノ・ソナタにも通じる奏法と解釈で、「悲愴・月光・熱情」という聴き慣れたソナタに新たな光を灯し、聴き手の発見を促す。

"私は音楽のなかに潜む静寂、沈黙というものをこよなく愛しています。音が鳴っていない沈黙のときこそ想像力が喚起され、次なる音への準備、探求がなされるわけです。ベートーヴェンのソナタは、その沈黙があるべき姿で存在している。耳を澄ますことの大切さを教えてくれるのです"

"I am extremely fond of the stillness and the silence hidden in music. Only during those silences when there is no sound, one's imagination arouses, and can prepare and long for the next sound to come. In Beethoven's Sonatas, silence exists in the correct form. They teach us how important it is to listen."

 アファナシエフの演奏は、意表を突くテンポから哲学的な解釈まで、すべてが類まれな個性に彩られている。彼はベートーヴェンになりきり、その内面にひたすら肉薄していく。

ヴァレリー・アファナシエフ (ピアノ) photo02

©Alfred Knopf/Sony Music Japan International

ギレリスに捧げるモーツァルト

 2016年にリリースされたのは、モーツァルトのアルバム。アファナシエフの音楽は、常に作品に寄り添う真摯で深い思考が全編を支配しているが、モーツァルトも特有のテンポに彩られ、明快で個性的で心に強い印象をもたらす。聴き慣れた作品とは一線を画し、笑顔の奥に孤独と対峙するような表情を見せる複雑な演奏である。これは2016年に生誕100年を迎えた恩師エミール・ギレリスに捧げられた。有名な第11番「トルコ行進曲付き」、第9番(旧全集第8番)、第10番という選曲である。
「ギレリスとはベートーヴェンの話をよくしました。彼は音楽院では教えていなかったため、私はいつも自宅にレッスンに行きました。特に印象に残っているのは、第21番《ワルトシュタイン》と第28番です。彼は音楽のなかに住んでいるような人で、いつも全身に音楽を浴びているという雰囲気でした。自宅のドアを入るとそこにはギレリスの世界が広がり、音楽に満ちている。常にピアノに向かっていましたね。彼はベートーヴェンのソナタが内包する休符の大切さを力説しました。休符は沈黙ではなく、より大きく音楽をとらえるために必要なものだと。休符によってその音楽が成り立ち、ある姿を現すのだと。さらにハーモニーとメロディの関連性も学びました」
 ギレリスの話になるとアファナシエフは突如雄弁になり、目の輝きが増す。
「《熱情》の和声やテンポに関し、大いにディスカッションしました。アルトゥール・シュナーベルやスヴャトスラフ・リヒテルのテンポについて、意見交換をしたものです」
 ギレリスは幅広いレパートリーを誇るが、晩年にはモーツァルトとベートーヴェンの演奏に集中していた。アファナシエフが捧げるモーツァルト・アルバムは、ギレリスが得意としていたソナタが選ばれている。

ヴァレリー・アファナシエフ (ピアノ) photo03

テンペスト~プレイズ・ベートーヴェンⅡ
ヴァレリー・アファナシエフ(p)
SICC19024(ソニー)

トルストイに魅せられて

 アファナシエフは、長年フランスのヴェルサイユに住んでいた。だが、現在はベルギーに居を構えている。
「私が旧ソ連から初めて西側に出たのは、ベルギーのエリーザベト王妃国際コンクールを受けたときです。ですからこの国は私にとって非常に重要な意味合いをもち、第2の祖国のように感じるのです。この国は私をノスタルジックにさせるものがある。そこでベルギーに引っ越し、いまは世界各地で集めた2万1000冊の蔵書、たくさんの上質なワインに囲まれた家に住んでいます。昔、トルストイの家の写真を見たことがあり、そこには膨大な書籍を収めたライブラリーがありました。私はそれに魅せられ、トルストイのような家に住みたいと夢見たのです(笑)。ロシアの偉大なピアニスト、アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルは、晩年のトルストイと深い親交をもち、彼の前でベートーヴェンのソナタを演奏しているんですよ」
 アファナシエフはその広い一軒家で練習し、執筆し、ベルギーの美食を楽しんでいる。
「毎朝4時に起きて原稿を書き、9時半にもう一度寝ます。愛猫のムージル(オーストリアの作家、ロベルト・ムージルから命名)と、自由で気ままな生活をしています。毎日ピアノとパソコンに向かっていますが、一日がゆったりと過ぎていきます。ワインはボルドー・ワインのシャトー・オー・ブリオンが好きですね。フランスの名シェフ、ピエール・ガニェールの友人が開いているレストランに行き、おいしい物をいただくのも楽しみ。日本の京都も大好きで、歴史、伝統、寺院や庭園、そして美食にハマっています。能や俳句や歌舞伎も好きなので、時間を作ってもっと勉強したい」
 新譜は「テンペスト~ベートーヴェンⅡ」。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第1番、第7番、第17番「テンペスト」が収録され、来日前の10月4日にリリースされる予定だ。今回の来日公演は、10月10日浜離宮朝日ホール、15日紀尾井ホール。2日とも異なる興味深いプログラムが組まれている。

次回はジャン・ロンドー (チェンバロ)