Yoshiko Ikuma - クラシックはおいしい -Blog

音楽を語ろうよ

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は生涯弾き続けていく大切な作品。もっともっと表現力を磨いて、いい演奏をしたいと思っています。アレクサンダー・クリッヒェル (ピアノ)

Rachmaninov’s Piano Concerto No.2 is a piece that I would like to go on playing throughout my life, and is a very important piece for me. I would like to improve my abilities in expression and perform even better. ― Alexander Krichel (Piano)

2017.01.26.

アレクサンダー・クリッヒェル (ピアノ) photo01

©Uwe Arens

ピアノでうたうこと

 音楽を学ぶ若い演奏家にとって、師事する先生という存在は、その後の音楽人生の方向を定める上で非常に大きな役割を果たす。
 音楽性、人間性ともにピタリと合い、尊敬できる先生に巡り会えた場合は若き才能が大きく開花するが、逆の場合は実力を十分に伸ばすことができない。
 1989年ハンブルク生まれのアレクサンダー・クリッヒェルは、すばらしい恩師に巡り会うことができた幸福なピアニストである。彼は2007年からハノーファー音楽・演劇大学で、名教師として知られるウラディミール・クライネフに師事。このクライネフが、クリッヒェルの人生の上で大きな影響力をもつ存在となった。
「クライネフ先生は、ぼくにとって特別な存在です。16歳半から22歳まで5年以上師事し、彼の最後の弟子となりました。先生の自宅に寄宿し、ありとあらゆることを学びました」
 クライネフは1944年ロシア生まれのピアニスト。モスクワ音楽院でゲンリフ・ネイガウス、スタニスラフ・ネイガウスに師事し、1970年のチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で優勝を果たしている。国際舞台で幅広い活動を展開したが、ハノーファー音楽・演劇大学の教授に就任してからは、河村尚子をはじめとする多くの若い才能を育て上げ、名伯楽と称された。しかし、2011年に67歳で急逝している。
「実は、先生が亡くなった日、ぼくは学校でレッスンを受けていたのです。先生のレッスンの基本は“ピアノでうたうこと”。音色と歌心にとても強いこだわりをもっていて、各々の生徒の演奏から歌を引き出すことをモットーとしていました。ぼくの場合はいいたいことがたくさんあるのに、それをピアノで表現していないといわれ、もっと自分を開放し、自由に、心の底から自分がいいたいことをピアノで奏でなさいといわれました。先生はいずれの作曲家の作品にも敬愛の念をもち、それぞれの作品において絵を描くように、詩や物語を語るように、あるイメージを抱いて演奏することを教えてくれました」

最後のレッスンで弾いたラフマニノフ

 最後のレッスンの日(4月29日)は、よく晴れた気持ちのいい日だった。クライネフもとても健康そうに見えた。
「まさか、その日が別れの日になるとは思いもしなかったので、レッスンの数時間後に訃報を耳にしたときは、本当に信じられない思いでした。その日は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を聴いてもらいました。先生はけっして褒めることがないのですが、ただひとこと、“OK”といわれたときは、よく弾けているという証しなのです。この日ラフマニノフを弾き終わると、“きみはリヒテルやホロヴィッツと同じ天才の香りを放っている”といわれたので、不思議な運命のようなものを感じました。褒められたことはあまりなかったものですから…」
 しかし、恩師が急逝したことにより、クリッヒェルのなかで何かが急に変わってしまい、2カ月間というもの、音楽を聴くこともピアノを弾くこともできなくなってしまった。
「ピアノの前にすわると涙があふれてきてしまい、演奏できないんです。先生はぼくの父親のような存在で、音楽に関してだけでなく、人間としても成長させてくれました。よくこういわれたものです。“私はたくさんの生徒を抱えていて、生徒が植物だとすると、私は庭師のような立場だ。常にみんなに水やりをしなくてはならない。だけど、きみの場合は勝手にどんどんあちこちに枝葉を伸ばしていくので、剪定をしなくてはならないんだよ”と。そしてぼくの意見もすごく注意深く聞いてくれ、意見交換を楽しんでくれました。ですから、先生が急にいなくなってしまい、どう生きたらいいのかわからなくなってしまったのです」

アレクサンダー・クリッヒェル (ピアノ) photo02

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番&楽興の時
アレクサンダー・クリッヒェル(ピアノ)
ミヒャエル・ザンデルリンク指揮ドレスデン・フィル
SICC30269(ソニー)

リスクを背負っても音楽家の道を

 そんな折、レコード会社のソニーから契約の話がもちかけられた。これはクライネフが導いてくれたものだと考え、勇気を振り絞ってピアノに向かうようになる。そして、「春の夜~ドイツ・ロマン派名曲集」と題したアルバムを完成させた。
「ドイツは歌曲が有名ですよね。そこで初録音はさまざまな歌の編曲版や、クララ・シューマン、ファニー・メンデルスゾーンの曲も収録しています。シューベルト~リスト編の《魔王》も入れました。ただし、この曲は音量がとても大きく悪夢のような雰囲気を醸し出すため、その次にウェーバーの《華麗なるロンド》をもってきて、ああ、これは夢だったんだ、悪夢から覚めたと思ってもらえるような感じにしたかったのです」
 クリッヒェルの2ndアルバムは、恩師との最後のレッスンで演奏したラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ミヒャエル・ザンデルリンク指揮ドレスデン・フィルとの共演だ。ここに聴くクリッヒェルの演奏は、ラフマニノフの作品の内奥にひたすら肉薄していく熱いもので、ロシア魂のような深々とした抒情と豊かな歌心が横溢している。
 クリッヒェルはソニーのドイツの副社長とは友人で、彼がこんなことをいった。
「きみがラフマニノフのコンチェルトを録音したいという前に、私もその曲を希望したいと思っていたんだ。ロシア作品をきちんと弾ける初めてのドイツ人ピアニストだと思っているからね」
 このことばはクリッヒェルを大いに勇気付け、録音にも力が入った。
「レコーディングの間、ずっとクライネフ先生が見守ってくれる感じがしました。ぼくにとって、このコンチェルトは生涯弾き続けていく大切な作品。もっともっと表現力を磨いて、いい演奏をしたいと思っています」
 この2枚のCDは、クライネフに捧げられている。実は、クリッヒェルは子どものころから音楽のみならず数学、生物学などにも興味を抱き、一時は医者を目指したという。


"家族が、音楽家は不安定な職業だと考え、医者の道に進むように仕向けてくれたのです。でも、ぼくは音楽が自分を表現する上でもっとも適格なものだと考え、結局、医学の勉強は途中で止め、ピアニストを目指しました。ぼくはすべてのリスクを背負っても、音楽家の道を歩む価値があると思ったからです"

"My family thought that being a musician is a precarious business, and urged me to go into a career in medicine. However, I felt that music was the most important thing for me to express myself, and stopped studying medicine, and moved on to become a pianist. I thought that it would be worth it, even if I had to take every risk."

アレクサンダー・クリッヒェル (ピアノ) photo03

作曲も指揮も…

 クライネフが亡くなった後、彼は自分に合う先生を探し、さまざまなピアニストに会い、レッスンを受けた。そのなかで、クライネフと同じくロシア出身で、モスクワ音楽院ではディミトリー・バシュキーロフ門下、1975年のリーズ国際ピアノ・コンクールの優秀者であるドミトリー・アレクセーエフ(1947~)にロンドン王立音楽大学で教えを受けている。
「アレクセーエフ先生はぼくがクライネフの弟子だと知り、ライバルだといわれたにもかかわらず、クライネフをすばらしいピアニストだと褒めたのです。ぼくはそのことばに感動しました。ライバルを褒めるなんて、なかなかできることではありません。人間の大きさを感じたのです。この先生に就きたい、そう思った瞬間でした」
 クリッヒェルは作曲も行い、ボーナストラックには自作の美しくおだやかで抒情的な旋律に彩られた「子守唄」が収録されている。最近は指揮の勉強も始め、弾き振りにも興味を抱いている。彼のピアノはけっして鍵盤を叩かない繊細な音色と、美しい弱音が特徴。ドイツから国際舞台へと飛翔した新星の前には、大きな海原が広がっているようだ。

次回はヴァレリー・アファナシエフ(ピアノ)