バッハは「ゴルトベルク変奏曲」で生命が常に蘇生していくような、終わることのない永遠性を示唆しています。アレクサンドル・タロー (ピアノ)
Bach's "Goldberg Variations" suggests a never ending eternity,
it's like life being resuscitated over and over. ― Alexandre Tharaud (Piano)
2016.09.05.
©Marco Borggreve
「タロー現象」を巻き起こす
常に斬新なプログラムで世界を驚かせているフランスのピアニスト、アレクサンドル・タローは、絵画のような美を放つ響き、バレエのようなかろやかさを思わせるリズム表現でピアノ・ファンの心をとりこにしている。
1968年生まれ。パリ音楽院を卒業後、ミュンヘン国際コンクールをはじめとする数々のコンクールに入賞し、ソロ、室内楽の両面で活躍するようになる。
名前が広く知られるようになったのは2001年にリリースした「ラモー:新クラヴサン組曲」。次いで登場した「クープラン作品集」とともに、美しく繊細なタペストリーを織り込んでいくような、熟練した職人芸的なピアニズムを聴かせ、「タロー現象」と呼ばれるセンセーションを巻き起こした。
「ルイ王朝時代の楽器は現代のピアノとはまったく響きが異なるためアプローチを変えなくてはなりませんが、弱音の出し方、やわらかな音の表現など学ぶべきことは多い。最初はどう表現したらいいかわからずとまどうことも多かったのですが、徐々に作品の奥深さに魅了され、のめりこんでいきました」
タローの奏法は完璧なるテクニックが根底に存在し、その上に多彩な色合いと自由闊達な音色が躍動感をもってちりばめられている。リズム、タッチ、フレーズの作り方、装飾音がきらびやかに、ナイーブな感覚を伴って舞い踊っている感じ。まさに大人の音楽、ピアノを聴き込んだ人たちが、さらなる刺激と感動を求めて聴くピアノである。
録音は痛みを伴う
その成熟度が遺憾なく発揮されるのは、アンコールでたびたび取り上げるショパンのワルツ。これもすでに録音されている。
「子どものころからずっとショパンを愛してきました。ところが数年前、クープランの楽譜と出合い、両者の音楽にさまざまな類似点があることに気づいたのです。ふたりともからだが弱く、生きる希望を作品に託した。大音響の音楽ではなく、気品あふれる繊細な響きで鍵盤をうたわせるような作品を書きました。これらの響きがドビュッシーらのちの世代の音楽家に大きな影響を与えています。私は昔から“ピアノを人間の声のようにうたわせたい”と考えてきましたから、彼らの曲作りの基本精神に共鳴したのです」
タローの話しかたも、演奏同様の静けさと繊細さと流れるようなある種のリズムを備えている。気難しさも随所に顔をのぞかせ、それは完璧主義者ゆえの苦悩にもつながっているようだ。そして録音に関しては、楽しさは一度も味わったことがないと明言する。
「録音というのはその瞬間の音楽を切り取ったもの。リリースされたらもうやり直しはきかない。もっとああすればよかったと常に痛みが伴うものなのです。ひとつのレコーディングが終わってリラックスし、幸福な時間が訪れるかと思うと、けっしてそうではない。CDが店頭に並んだとき、それはもう私の手から離れ、すぐに次なるプロジェクトの準備にかからなくてはならないんです」
J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲
アレクサンドル・タロー(ピアノ)
WPCS13262(ワーナー)
馬の匂いはバッハの音楽に合う?
タローを特徴づけているのは自分のピアノをもたず、友人の楽器から楽器へと渡り歩いて練習していること。
「この方が集中できる、弾きたくてたまらなくなるから。愛しい人に会いたい気持ちと同じです。ふだんは頭のなかで音楽をイメージする。鍵盤に向かうのはほんの短時間です」
最近は、パリのレピュブリック広場の近くに位置する兵舎の一角にある建物のピアノを借り、練習している。
「一般公開されていない場所で、公的な行事のために馬が3000頭飼育されています。門をくぐると田園的な風景が目の前に広がり、馬の匂いがして、とても安心感があるというか、メディテーションになる。ストレスが一気に吹き飛んで行く感じがするのです。ピアノを弾いていても、とてもおだやかな気分になり、喜びに満たされる。馬の匂いとバッハは特に合うと思いますよ(笑)」
そんな彼の新たな挑戦がJ.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」。まさにタローならではの演奏で、美しく内省的で深遠なるアリアからスタートし、30の変奏曲で聴き手をバッハという宇宙への旅へといざなう。各々の変奏がある種のストーリーを描き出し、聴き手の想像力を喚起し、幻想的な世界へと迷い込んでいくようだ。
"「昔からグールドの《ゴルトベルク変奏曲》や他のピアニストの演奏を数多く聴いてきました。でも、私の人生はとてもスピーディで、じっくりこの作品と向き合う時間がないことに気づき、長年置いておいたのです。でも、6年前にやはり自分で弾いてみたいと思い立ち、4年間かけて仕事のスケジュール調整をし、1年間のサバティカル(長期休暇)をとることができた。そこでいろんな土地に旅をしながら作品と真っ向から対峙し、集中して勉強し、録音に備えたのです。たった1小節のために1週間練習したこともあります。それだけ内容が深いですから。バッハはこの作品で生命が常に蘇生していくような、終わることのない永遠性を示唆しています」"
"I have been listening to the “Goldberg Variations” by pianists like Gould and many others. But I realized that my life was too speedy and had no time to confront with this piece, so I left it untouched for many years. However six years ago, I felt that I had to play it myself and so I re-arranged my schedule for 4 years and managed to get myself a Sabatical year.
I visited different places and confronted with the piece, concentrated in studying it for the recording. I even spent 1 week to practice a single bar. The piece is that deep."
マルセル・メイエに魅せられて
タローは昔のピアニストの録音をよく聴くが、特に長年愛聴しているのがフランスのピアニスト、マルセル・メイエ(1897~1957)。パリ音楽院出身で、マルグリット・ロンやアルフレッド・コルトーに師事した名ピアニストで、サティと親交があり、プーランクの作品の初演も行っている女流ピアニストである。
「マルセル・メイエの録音を初めて聴いたのは20歳のとき。とても自然な音と創造性に富み物語性のある音楽、常に何か新しいことを発明していくようなピアノに魅了され、ずっと聴き続けています。17枚組の録音の解説文も書きました。テレビやラジオでもメイエのことを熱く語っていたので、ローマに演奏に行ったとき、それを知って娘さんが会いにきてくれました。感動しましたよ」
タローからは、日本でもっとメイエのことを知らせてほしいと懇願された。そして「次のインタビューは、メイエのことだけ話さない?」と提案された。それまでに録音を探して聴き、私も勉強しなければならない。タローとは、そうした知的好奇心を促す人でもある。
次なる録音はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、幻想的小品集、ヴォカリーズ、6手のためのピアノ小品(ワーナー 10月19日発売)だが、その視線の先にはベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ3曲が見えている。
「私は作品109、110、111は3つのオペラのようだと思っているんです。これらの作品を弾いていると、いろんな歌手の声や合唱やオーケストラの響きが聴こえてくる。ベートーヴェンはピアノという枠を超えた、未来のピアノ音楽を創造したのだと思います。作品109は15歳から弾いていますが、人生の経験とステージでの経験が相俟って、内容は深まっています。ベートーヴェンのこまやかで感情豊かな内容へと迫っているのです」
今後も録音計画がびっしり。「タロー現象」はとどまるところを知らないようだ。
次回はアレクサンダー・クリッヒェル (ピアノ)